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【男爵倶楽部のルーツを辿る】川田龍吉男爵という人物

■川田男爵の生涯

 

川田龍吉は江戸時代の終わり、1856年に北海道とは縁もゆかりもない土佐郷士の家に生まれました。
青年期には造船技術を学ぶためにスコットランド・グラスゴーへ留学。そこで後の人生に大きな影響を及ぼす女性との【運命的な出会い(リンク先参照)】があります。
帰国後は学んだ技術を生かして横浜ドックの初代社長に就任、明治期の日本造船工業に貢献しました。
40歳の時には日銀総裁を務めた父・小一郎が爵位「男爵」を授与されますが翌年に急死。長男の龍吉が男爵を受け継ぎます。
その後、渋沢栄一より経営が傾いていた函館ドックの再建を託され、いよいよ北海道の地へと移り住みました。

 

龍吉は専務取締役として会社の再建に奮闘、同時にかねてから興味があった農業を本格的に始めます。
留学先のスコットランドで先進の農業技術を目の当たりにし、日本との差を痛感した龍吉は、積極的に海外の技術を取り入れました。
その際、特に進んで栽培したじゃがいもが後の「男爵いも」となります。
また、男爵という高い地位にも関わらず、農場では積極的に農民と交わろうとした姿勢も後世に伝わっています。

 

函館ドックの経営も軌道に乗り勇退した龍吉は、晩年まで北海道農業の近代化に努めました。
92歳の時にはトラピスト修道院で洗礼を受けカトリック教徒となり、3年後にその生涯を終えます。

 

■函館、道南での功績

 

川田龍吉は北海道に移り住んでからというもの、生涯を賭けて地域の発展に尽力しました。
専務取締役として再建を任された函館ドックでは、強力な人脈を通じた株主探しや、横浜から信頼のおける技術者のスカウトなど、積極的な改革を断行。
技術者としての顔も持つ龍吉はつねに工場を点検し、無駄な点を改めさせたといいます。
日露戦争後の不況の中、経営が傾いていた函館ドックは龍吉の手腕によって軌道に乗り、現在の函館にも姿を残しています。

 

そして農業。
スコットランドの農村で先進の技術を目の当たりにした龍吉は、積極的に海外の技術を取り入れ、道南・北海道の近代農業化に貢献しました。
現在の「男爵いも」は龍吉が北海道で栽培した作物の代表格。
スコットランドで食べたじゃがいもの味が忘れられなかった龍吉は研究を重ね、海外から「アイリッシュ・コブラ―」という品種を取り寄せ栽培を始めます。
たちまち評判となったじゃがいもは貧困の救世主ともなり、功績を讃える意味で「男爵いも」と名づけられました。

また、海外から取り寄せた数多くの欧米スタイルの農機具も当時は画期的でした。
その大部分は現在も残っており、七飯町の姉妹施設「THE DANSHAKU LOUNGE(ザ・男爵ラウンジ)」でご覧いただけます。

 

■自動車オーナードライバー第一号

 

日本で初めて自動車のオーナードライバーとなったのは、実は川田龍吉です。
1902年(明治35年)の東京、現在の新橋付近で、龍吉は蒸気で動く「馬なし馬車」を発見しました。
「ロコモビル」と呼ばれる、アメリカからやってきた車に一目惚れした龍吉は即座に購入。
東京はもちろん、北海道に移り住んでからも自宅から農場までをロコモビルに乗って移動したそうです。

 

当時の自動車は現在と比べて走らせるのに手間も時間もかかり、操作も複雑でした。
ただ留学中に蒸気機関を学んだ龍吉にとってはお手の物。
見慣れない車を走らせる龍吉は注目の的だったそうです。
このように、若くして海外経験のあった龍吉は、日本の既成概念に捉われない「進取のスピリット」を持った人物であることが窺えます。

 

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2019.10.01 UP!
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